Fumikoの履歴書 第1話

フェンシングに虜になった19年間

私が生まれたときには、母はすでに離婚していて、私は母と祖母しかいない家庭に育ちました。産まれたときから、父親という存在がなかったので、何の寂しさや不自由も感じることなく生きてきました。祖母も母も体力がある方で、男がやるような力仕事や外仕事もこなしていたので、父親がいないことを何も考えることなく育ちました。本当にありがたいことだと今更ながら思います。

ただ、1つだけ困ったことがあったのは、小学生の時の「父親参観日」でした。父親参観日と言うことで、「お父さんの顔を描きましょう」という図工の授業でしたが、私は祖母が来てくれたので「うちはおとうさんがいないので、描けません。おばあちゃんでもいいですか?」と聞いたのを覚えています。

 

母は中学校の体育の先生をしており、生徒指導や部活動で忙しく、家庭のことや子育ては祖母に頼っているところが大きく、母が父親、祖母が母親のようでした。

片親だったけど、愛情深く育てられ、不満なく成長しました。小学生までは母の影響で体育の先生になるという目標だったが、中学からは「医者になる」という夢を叶えるべく、地元で一番の進学校に進学したのです。

しかし、新入生の部活動体験で、体育館で行っている部活動を見学しに行ったときに、一緒にエレクトーンを習っていた地元の同級生の兄から「お前、左ききだったよな。フェンシングはすごく有利だよ。全国大会いけるよ!」と誘われ、弓道部希望だったはずが、仮入部期間が過ぎてしまい、そのままフェンシング部に入部することになったのです。その後、フェンシングの面白さにはまり、「勉強よりフェンシング!」と虜になってしまいました。

 

フェンシングは、瞬発力と駆け引きが重要な頭脳戦。「やるからには1番の性分」で、医学部進学が目標だったのにいつの間にか、「インターハイ上位入賞!」が目標日々日々フェンシングで上達すること、勝つことだけ考えているような状態でした。

努力の成果が出て、高校2年生で県の強化指定選手になるも、同地区に全国大会常連、しかも上位入賞している高校があり、3年生最後の試合、インターハイ予選で、決勝トーナメントに進出しましたが、全国大会の出場枠の2位まで入ることができず、悔し涙を流しました。そうして、私のフェンシング人生は一旦終わったです。

 

しかし、高校3年の夏休み、多くの生徒が大学受験の現況に力を注ぐ中、「このままフェンシングを終えていいのか。せっかく一流選手から、大学で続けた方がいい。もったいないと言われているのに、やめていいのか・・・」という声が、受験勉強している私の頭に毎日のように浮かんできた。そこから、「天の問いかけに応えよう。たしかにこのままでは後悔する」と、医学部受験という進路を思いっきり変更し、その当時女子で一番強かった日体大へ進学することに目標変更したのです。

運よく、山形国体(国民体育大会)前の強化されている時期というのもあり、県の関係者から日体大へ進学したいという話を通してもらうことができたのです。ただし、全国大会出場、上位入賞などの成績がないため、書類選考だけの推薦受験ではなく、学校長推薦という形での受験でした。

 

運命とは面白いもので、11月の試験の直前、9月の大会で足首の靱帯を損傷。普通に歩けるまでは半年くらいかかるだろうという、松葉づえ生活になってしまったのです。当然、受験当日も、松葉づえで負傷者グループで実技試験のハンドボール投げを受験。実は、それも幸運だったのです。なぜなら、普通に受験していたら、日体大を受験するみなさんは、体育大学専門の塾に入っていたり、そもそもの実力がすごかったり、かなり練習を積んできているようで記録が半端ない人ばかりだったのです。普通に受験していたら、合格には及ばない結果となっていたのではないかと思ったのです。結果的に、負傷者ということで大目に見てもらえたのか、全国大会出場すら成績がないのに合格することができました。

 

しかし、そのようなラッキーで入学できたのですが、入ってくる同級生は、当然インターハイ優勝チームメンバーや個人上位入賞者ばかり。先輩たちももちろん、全日本クラスの方々で、日々の練習はコテンパンにやられてしまう有様。技術の低さはもちろんだったけれど、試合経験も乏しかったので、試合形式の練習では、負けの連続。当時の日体大は、上下関係が厳しく、高校でゆるゆる「フェンシング大好きです!」と練習してきた甘々な私には、とても辛い毎日でした。大会に出てもトーナメント進出しても1,2回戦で敗退。本当に辛く悔しい日々を送っていました。

 

しかし、一人の実力はあるのに勝てなかった先輩が、ある時から別人のように勝ちはじめ、大会でも上位入賞するように。その様子を見ていた私は、何があったのか聞いてみたのです。先輩はいろいろと教えくれて、3年生に上がったときに、心理学のゼミに入って自律訓練法などメンタルの強化をし始めたからだと話してくれたのです。そして、「そうか!私も3年になったら、そのゼミに入る!」と決意。そうして、念願叶い、そのゼミに入ることができました。

そのゼミは、長田一臣という教授が率いる、体操のオリンピック選手のメンタルトレーニングを指導している先生たちがいるところだったのです。自分自身も、ゼミ活動で学んだその方法を実践。毎晩ビジュアライゼーションや自律訓練法などに取り組んだ結果、めきめきと競技成績が上がり、4年生の時には、インカレ(大学生の全国大会)で個人・団体で優勝するまでになれたのです。

 

その後、大学を卒業してもフェンシングへの探究は続き、大学2年生から34歳まで、仕事をしながら国体選手(選手兼監督)として競技生活を続けてきました。仕事をしながら、毎週社会人との練習に取り組んで、34歳の時、念願の国体優勝も勝ち取ることができた。辿り着くまで辿り着くまで10年の月日が流れていたのです。どれだけフェンシングが大好きだったんだろう、どれだけ頂点を目指したい人間なんだろうと今では、驚いてしまいます。でも、このフェンシングとの出逢いやこの様々な経験は、自分の人生を大きく変えるものとなったし、自分の生き方の土台にもなっていると思ってて。それに、日体大に進学したおかげでパートナーとの出逢いにも繋がったので、あの高校での部活選択は宇宙の采配だったなーと思っています。大きな宇宙のプログラムに添って、私たちはいろいろなことを体験し、一喜一憂しながら、この肉体で様々な感情を味わうことを楽しんでいるんだろうと思います。

 

 

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