今日は、職歴について書いていこうと思います。
大学4年の時、地元の公立高校の保健体育の教員採用試験を受験したが不合格になってしまいました。その当時、氷河期と言われる社会情勢もあったし、そもそも一般の会社に勤めることを希望していなかったので、教員という道を選択したのです。
4年の秋に、常勤講師の話をいただいたですが、数日後に世界大会の選考会を控えていて。「選考会の結果が出てからではダメですか?」とお願いしたのですが、この電話で決めないといけないといことで、待って貰うことができず。私はそのとき、選考会をとる決断をし、常勤講師のお話をお断りしたのです。
こうして、常勤講師の依頼をお断りした経緯もあってか、その後、講師のお話は5年ほどいただくことはできませんでした。役所の臨時職員やスポーツクラブのトレーナーやエアロビクスのインストラクターなどをしながら、大学4年の時から10年間、教員採用試験を受け続け、10回目にしてようやく合格して、正式採用されたのでした。
改めて書いていくと、大学を卒業して、教員になれなかったため、半年間、プータローでした。これではいけないと役所の臨時に応募。採用となり体育館の事務補助として働き始めたのです。
体育館勤務とは言え、事務職ですから、運動不足となり、加えて日々の仕事のストレス発散のためエアロビクスを始めたのです。その後、役所の臨時職員の期限が切れたこともあり、先輩のつてでスポーツクラブのトレーナーとしてアルバイトを始めました。
しかし、そのアルバイトは、遅い時間の勤務だったり、当時スポーツクラブなど田舎ではなかなかお客様が来ず、暇な仕事で、給料も安かったんです。そんなとき、かつての職場である役所からスポーツ振興業務嘱託職員という継続的な町の仕事の依頼をいただき、引き受けることにしたのです。
しかし、年配の方の健康指導ばかりで、ほとんど事務仕事でもやもやする日々。またもや、エアロビクスやヒップホップダンスに通いストレス発散する日々。しかし、インストラクターのようなキレのいい動きができず、「日体大卒なのに!」と悔しさのあまり、インストラクター養成スクールに入校することに。エアロビクスインストラクターという資格を取得、嘱託職員もキリの良いところで辞めて、フリーのエアロビクスのインストラクターとして活動を始めました。
その後アクアビクスのインストラクターの資格も取得し、スポーツクラブや公民館、個人のスタジオなどに通い、指導を始めたのです。みなさんに喜んでいただけ、自分も運動になるし良かったなぁと思っていたのですが、やり続けていくと、替えが効かない、つまり具合が悪くてもレッスンはそうは休めないワケです。なので、だんだんと「この仕事どうなんだろうなぁ、早く教員採用試験、受からないかなぁ」という想いが強くなっていきました。
そんなことを考えていた27歳の時、毎年出していた常勤講師の話が突然やってきたのです。年度途中だったのですが、病気療養の先生が出てしまったとのことで、途中からいきなり公立高校の常勤講師として勤務し始めることに。
ここでちょっと話がそれますが、なぜ公立高校かというと、私立学校は合格しやすいと言われていたけれど、私立は会社と一緒で、首を切られることがあったり、ずっと職員が変わらなかったりというのが嫌だったからなんです。根本的な性格として、「同じであることが嫌い」で、変化することが好きだから、10年かかっても公立高校の教員を選んだのでした。
そしてなぜ体育だったかというと、日体大体育学部を卒業すると取れる教職の資格が保健体育だったためで。地元山形に帰ってできる安定した仕事というのもあり、当時の私には、一般企業に入社する選択は一切ありませんでした。
いきなり来た年度途中からの講師依頼。「いきなり来たこの人誰??」という生徒の反応を受けながら、そこから5年間の私の公立高校での講師人生がスタートしたのです。
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